京焼の伝統を受け継ぐ色絵付けのみならず、唐津での修業で培った土や釉薬を生かした作品作りを行う宮川香雲氏にお話を伺いました。
宮川香雲氏
―ご当家の歴史をお聞かせください。
私の祖父にあたる初代は、四代宮川香齋の次男として生まれ、別家するにあたり「龍谷(りゅうこく)窯」の窯名を分与されました。「香雲」の号は大徳寺の11代管長を務められた小田雪窓老師から頂戴しました。祖父も、二代を継いだ父も、宮川長造以来作ってきた仁清(にんせい)写しや乾山(けんざん)写しなどの上絵付(うわえつけ)や染付(そめつけ)、交趾(コーチ)、金襴手(きんらんで)などの伝統的な京焼の技法を用いた作品を作ってきました。
祖父の頃から裏千家へ出入りさせて頂きまして、父は井口海仙宗匠に師事して茶道を学びました。
三代目となる私ですが、よく「子供の頃から陶土に親しんできたんでしょう」などと言われるものの、実際には高校を卒業するまでは陶土に触ったこともありませんでした。はじめて作陶をしたのは京都市内の専門校に入学した時です。
―修業をされている頃の思い出などはありますか。
当時は、当家のような仕事をしていると、「家業を継ぐ」ということは自然な時代だったように思います。ですから、京都市立工業試験場に入学することにも違和感はありませんでした。ただ、作陶に関する知識がほぼ無かったため、轆轤(ろくろ)の回し方も全くわからず、講師から「本当にやきもの屋の息子なのか?」と呆れられていました。
京都市立工業試験場、次いで京都府立職業訓練校で二年間学んだ後、父の意向で唐津の中里重利先生のもとで修業することになります。それは、唐津焼が、萩焼と共に茶陶の原点であると父が感じていたからだと思います。実際、京都などでは既に陶土になったものを入手しますが、唐津では山から採ってきた土を陶土にするところから作業が始まります。同様に釉薬も藁(わら)を燃やして灰を作るところから始まります。そのような点からも、茶陶を作る上での様々なことを深く学べたと感じています。
師匠の重利先生は365日ずっとやきもののことを考えているような方でしたから、唐津での修業時代に得た経験は何物にも代えがたいです。
―唐津での充実した修業を終え、京都に戻ってからはいかがでしたか。
幸い父も元気にしておりましたから、京都に戻ってから10年ほどは家業を手伝わずに、轆轤や絵付けなど、やきもの作りに関する様々なことを勉強をする時間が得られました。その期間に自分の中に蓄(たくわ)えのようなものが出来たのではないかと感じます。
一昔前までは、京焼では、ハイクオリティなものを作るため、プロデューサー的な立場の人間が作品を構想し、実際の作業は、轆轤は轆轤師、絵付けは絵付け師といった具合にそれぞれのパートに専門に携わる職人たちによる分業制でした。それが現在では、基本的に一つの作品を一人で作り上げるという流れです。全ての技術を磨いていかなければならないため大変ですが、その点で、様々な技術を身に付ける時間が得られたのは貴重でした。
―作品を制作するにあたり、心がけていることはありますか。
数百年にもわたって人々から評価されてきた「名品」を超えるような作品を作ることは簡単ではありません。ただし、茶道具はそれぞれの時代によって求められるものがあります。使いやすさは勿論ですが、「いま」の茶の湯のすがたに適ったものを作らなければならないと考えています。
また、父の時代から絵付けの美しさをお褒め頂いておりますが、私としては器の形や土味にも注目して頂きたいと思っています。修業した唐津焼の魅力の一つである土味に京焼の絵付けの技術を融合した作品づくりも意識していますので、お手に取って頂きたいですね。
〈プロフィール〉
みやがわこううん、1966年、龍谷窯・二代宮川香雲の長男として京都市に生まれる。京都市立工業試験場、京都府立職業訓練校で学んだ後、唐津の中里重利氏に師事。2017年、三代香雲を襲名。
翔鶴絵茶碗
吉祥絵水指
土味も魅力の灰釉白梅絵茶碗