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茶の湯のうつわ、伝統の継承と創造
和田桐山氏

 

初代以来の兵庫県尼崎市の琴浦窯と共に山梨県に築いた大泉窯とで多彩な技法で作陶に取り組む和田桐山氏にお話を伺いました。


和田桐山氏

 

ご当家の歴史と作歴をお聞かせください。

当家は江戸時代、尼崎藩主の櫻井侯に外科医として仕えていました。明治に至り、和田九十郎正隆が兵庫県の学務課に奉職中に淡路島の志築(しづき)での陶器学校建築に参画しました。しかし、何らかの事情により実現せず、それではと官を辞して兵庫県武庫郡中村(現、西宮市)に移り住み、「千瓢軒」の窯印を使って作陶を始めました。
九十郎や私の祖父の初代桐山は、当時、近くの芦屋の齋藤幾太という素封家の手伝いをして窯を築き、打出(うちで)焼に取り組みますが、打出焼が軌道に乗ると自分たちは窯の運営から離れ、尼崎に琴浦窯という名前で窯を築き、楽焼を手掛け始めます。明治43年(1910)のことで、これが当窯の端緒となります。
私は平成8年(1996)に四代目を継ぎました。父や祖父が得意とした色絵や金襴手といった作品とともに、山梨県の八ヶ岳南麓に登り窯(大泉窯)を築いて絵の無い土物陶器の制作にも取り組んでいます。

 

―ご当家の作品の特徴はどのようなものですか。

先程も申し上げた通り、当家はもともと楽焼の窯として創業し、その後、煎茶道具を焼いていました。加えて、嘉納治兵衛さんや山口吉郎兵衛さん、小林一三さん、早川徳次さんなど神戸や大阪の数寄者の方々からもご注文を受ける機会が増え、色絵や金襴手など様々な技法を用いた作陶をするようになりました。昭和に入り、鵬雲斎大宗匠のご令姉・良子様が櫻井家に嫁がれた後、櫻井侯の外科医を務めていたという当家の歴史もあって、裏千家様とのご縁も生まれ、抹茶の道具にも力を入れるようになりました。

 

―今月号の表紙に掲載した作品についてご説明ください。

奈良にある唐招提寺(とうしようだいじ)では平成28年(2016)から御影堂(みえいどう)の修復作業が進められ、本年3月に工事が竣工し、6月には落慶法要が営まれました。この唐招提寺の岡本元興長老の自坊・大覚寺とは当家が琴浦窯を築いてからのご縁もあって、竣工の記念品を制作させていただくことになりました。
作品の構想を練っていく中で、折角なので御影堂の下の土を陶土に使えないかという話になりました。唐招提寺が建つ西ノ京は赤膚(あかはだ)焼が焼かれた五条山に近く、創建時にはこの地の土で瓦が焼かれたということもあり、やきものに適した土が採れるだろうと想像できました。加えて、現在、御影堂が建っている場所には、唐招提寺が開創された当時は瓦を焼くための窯があり、その周囲には瓦の材料となったものと同じ土が眠っていました。
正に「天平の(てんぴょう)甍(いらか)」と同じ土を用いて作ったのが太鼓(たいこ)形の水指です。太鼓の皮面の青い色調は、御影堂を荘厳する襖絵「濤声(とうせい)」に因んでいます。一方には白く棚引く雲、あるいは波を、もう一方には金色の鳳凰を描いています。
また、茶碗も唐招提寺の土を使って作っていますが、表面には鑑真和上(がんじんわじょう)の故郷である江蘇(こうそ)省揚州市(ようしゅう)の名花である瓊花(けいか)を描いています。御影堂供華園に咲く瓊花は、鑑真和上遷化(せんげ)1200年にあたる昭和38年(1963)に中国仏教協会から贈られた一株の子で、唐招提寺のほかには東大寺など限られた場所にのみ咲いているそうです。
薄茶器は截金(きりかね)を施した磁器製の棗です。截金は本来、木地や紙に金箔を貼り付ける技法で、陶磁器に施すのはなかなか難しいのですが、永年の試行錯誤の結果、ようやく出来上がった技法です。

 

―今後、挑戦したいことなどはありますか。

截金の技法を陶磁器に生かした作品がようやくしっかりと作れるようになりました。現在は無地の器に截金で意匠を描いていますが、今後は、截金の土台となる器の色調を調整したり、色絵と截金の技法を組み合わせて自然に馴染んで見えるようにするなど、截金の可能性を追求しながら制作に取り組んでいきたいと考えています。

 

〈プロフィール〉

わだとうざん、1947年、兵庫県生まれ。父の三代桐山に師事。1972年、初代以来の琴浦窯にて作陶を開始し、2000年、山梨県に穴窯と登り窯の併用窯「大泉窯」を築く。

 


太鼓水指 以唐招提寺御影堂土
瓊花絵茶碗 以唐招提寺御影堂土
瑠璃截金釉裏彩棗


金彩落葉の絵茶碗


表紙に掲載している太鼓水指の裏側の面