楽焼や交趾といった𠮷向焼の伝統に即した技法はもとより、乾山写や自然釉などを駆使して作陶に取り組む𠮷向十三軒氏にお話を伺いました。
𠮷向十三軒氏
―ご当家の歴史と作歴をお聞かせください。
当家の先祖は伊予(いよ)国(愛媛県)大洲(おおず)藩主加藤家の家臣で、十二代目の戸田武兵衛は陶器を好み、砥部(とべ)焼を開窯した後、大坂の十三(じゅうそう)に移り住んで陶業を営みました。その子・治兵衛(1784~1861)は、縁あって寺社奉行の水野忠邦(ただくに)(後に老中として天保の改革を主導)の依頼で口径が三尺五寸(約一メートル)もある大金魚鉢と、二尺五寸(約七十五センチ)の海亀形の大食籠(じきろう)を作りますが、それが忠邦から十一代将軍徳川家斉(いえなり)に献上され賞賛されたことで忠邦から「𠮷向」の金印・銀印と、賀茂季鷹(かものすえたか)筆の「𠮷向」の二大字を拝領しました。また、文政10年(1827)には将軍家茶道指南役でもあった大和(やまと)小泉藩主の片桐貞信より「十三軒」の瓢箪形印を拝領します。陶技に優れ、あらゆるやきものを制作することが出来た初代は大洲藩や岩国藩、須坂藩など各地の大名に招かれて御庭焼(おにわやき)に携わり、茶道具や食器を中心に数多くの作品を制作しました。
以降、初代が手がけた多彩なやきものの技術を受け継ぎながら代を重ね、六代の頃に裏千家に出入りを許され、大阪出入り方「互報会」の発足会員となりました。
七代目の四男として生まれた私は、幼い頃から父に茶会に連れられるなどして茶の湯の世界に親しみ、父の下でやきものを学びました。昭和45年(1970)に父が亡くなると、翌年、八代を襲名し、茶陶を専らとしながら作陶に励んでいます。平成17年(2005)には伊賀にも陶房を設け、登り窯を用いた作品制作にも取り組んでいます。
―ご当家の作品の特徴はどのようなものですか。
御庭焼に携わった初代は様々な技法を駆使して作品を制作しました。制作した場所ごとに作行きには幅がありますが、特に黒・赤の楽茶碗、水指、交趾(コーチ)の置物、焼締(やき しめ)などを得意としており、当家では代を継承する者は初代が手掛けた全ての技法で作品が制作できるようにという教えを受け継いできました。
私の場合は、まだ充分に技術を修得する前に父を亡くしましたが、祖父や父の代からご縁のあった周囲の先生方の励ましによって技術を磨くことができました。父は主に楽焼に取り組んでいましたが、私は楽焼とともに交趾、黄瀬戸、青磁など様々な技法や作風に挑戦しています。
―作品を制作する上で特に気をつけている点はありますか。
地元の素材を生かしながら、自分自身の手で作り上げることを大切にしています。現在、初代以来、作陶を続けてきた大阪とともに伊賀に登り窯を築いて作陶に取り組んでいますが、大阪の工房では大阪で、伊賀の工房では伊賀で採れた粘土を材料にしています。そのようにして作陶をしていると、各地で採れた材料を使って作品作りに取り組んだ初代のすごさが改めて感じられます。
また、私どもが作っている茶陶というのは、茶の湯のためのやきものです。茶道具には寸法など様々な約束がありますし、多くの道具との取り合わせの中で用いられるのが特徴です。そのような約束や特徴を大切にしながら、お使いになる方の立場になって制作することが重要だと考えています。そのためにも、茶会に参席したり、お手伝いをしたりしてお茶人方の希望をお伺いし、独りよがりな作品にならないように努めています。
―今後、挑戦したいことなどはありますか。
初代が培った様々な技法を代々受け継いできたので、現在でも幅広い作風の作品を作ることはできます。ただ、その伝統をそのまま受け継ぐばかりでは作家としての魅力がなくなってしまうようにも感じます。ですから、釉薬をはじめとする材料を工夫しながら、茶陶に適う作品のレパートリーを増やそうと思っています。ちょうど今、二、三年かけて工夫してきた釉薬が「面白いな」と思える段階まで出来上がっています。そのような挑戦を続けることによって大勢の先生方からも応援してもらえるのではないかと考えています。
〈プロフィール〉
きっこうじゅうそうけん、1948年、大阪府生まれ。父の七代十三軒に師事。1971年、八代十三軒を襲名。茶陶を専らに作陶を続け、2005年に伊賀市丸柱に登り窯を築き、制作の幅を広げている。
交趾四君子青海波水指 黒茶碗
交趾風神雷神絵茶碗
灰被縄簾細水指